受贈詩書2018


黒田三郎を読む





黒田三郎小特集号発行


「火山脈」13号・日本民主文学会鹿児島支部

2006年11月20日発行


黒田三郎と鹿児島ー「南日詩壇」を中心に・茂山忠茂

若き日の黒田三郎・溝添雅夫

黒田三郎と二つの〈ふるさと〉・仲村政文

黒田三郎について考える・野村昭也

黒田光子著『人間・黒田三郎』にみる黒田三郎・小稲原ひろ子

黒田三郎年譜




黒田三郎の「俗な市民」と現代

 「PO」2006年119号特集「黒田三郎」掲載

      

佐古祐二


 酒呑みの逸話というものは、その人の豪放磊落さを印象付けるものである。しかし、黒田の

場合、酒呑みの逸話は数え切れないほど伝えられる(脚注一)にもかかわらず、不思議と豪放

磊落さというイメージとは程遠い。これは、一体、どうしたことであろうか。それは、黒田が長身

の体躯のわりに病弱な遺伝的体質を持っていたからではなく、その体質が黒田自身の自己概

念を規定し、弱く儚く美しい存在へのやさしい眼差しをいわば生得的ともいってよいほど、自ら

の細胞に息衝かせていたからではなかったか。黒田は、次のように語っている。

  中学三年の秋に長兄を、つづいて暮れには父を失った。父は海軍士官で六尺もある堂々

たる体躯だった。海軍兵学校の同期では最も相撲が強かったということである。だが、体質的

には弱く、がんで死んだのだが、結核を病んだこともあったようである。長兄が死んだのは、結

核であった。僕が父親から譲り受けたものは、腕力をともなわない、こういう体質である。(「生

いたち」より)

 そして、黒田自身、結核等で入退院を繰り返し、下咽頭癌で一九八〇年に六一歳の人生を

終えた。

黒田の創作活動について、権力や特権から遠い場所に生きる生活者の生への慈しみと苦い

批評とを、知性を背後にひそめた平明な表現で描き出したと、人びとは評する。なるほど、そ

のとおりである。黒田自身も、一九五一年版『荒地詩集』所載の「詩人と権力」という論文(思潮

社発行の『黒田三郎著作集』では、この論文は「権力と詩人」という標題として収録されてい

る。)の中で、次のように述べている。

これまで、詩人は自己を俗な市民から分つところに誇を持って来たが、天上の星を仰ぎ見るこ

とに依って、足が大地を離れてしまってはならないのである。ひとりの俗な市民として、僕が考

察を始めた所以である。

これは、黒田が一人の「俗な市民」であることを自覚し、自らの創作活動の立脚地点を確認し

ているものである。この「俗な市民」は、黒田にとって、その批評の矢が発せられるすべての起

点・基点であり、それは、戦争に負けると、掌をかえすように、自由とか民主主義とか新しい美

名を看板にして権力を握った人々を目の当たりにして、依って立つべき基点を見失いかねな

かった黒田が、唯一、依拠すべきものとして見出したものであった。しかし、だからといって、黒

田は、この「俗な市民」を手放しで信用したわけでなかった。

〈民衆〉へのオプチミズムは、必ずしもわれわれのものではないのである。というのは、民衆と

は僕であり、君であり、あなたであり、諸君であるからである。 (「日本の詩に対するひとつの

疑問」より)

このように、黒田は、「民衆」というものに、かつての民衆詩派の「民衆」への楽天的信頼や、プ

ロレタリア詩のプロレタリアートへの教条的信頼のような幻想は持たず、むしろ強い疑念すら

抱いていたと思われるが、そうであるにもかかわらず、群れとしての民衆でなく、その民衆を構

成するひとりの「俗な市民」というものに結局は依拠して、星を仰ぎ見るほかなかった。また、疑

念すら抱いていたからこそ、「俗な市民」である自分を直視して創作することで、苦い自己批評

の詩のことばを生み出すことができたのである。そして、その呵責のない自己批評の視線が自

らを苛み、創作を離れると酒を浴びるように呑んだのであろう。そして、「ぐずで能なし」とか「ろ

くでなしののんだくれ」などといった自虐的なことばを自らに投げつけた。それは、裏を返せば、

彼は、人間というものを、普通の人間が考えるよりもはるかに、本来すぐれた立派なものとし

て、イメージしている人間であったということができよう。

弱く儚く美しいものへのやさしい眼差しは、それを踏みにじろうとする権力的なものへの憤りの

激しさと表裏一体であり、黒田の詩作品の中に、それらが分ち難く存在しているのもその故で

あるが、同時に、自身の病弱さなどからくる不甲斐なさに「俗な市民」の無力さを重ね、権力的

なものへのもっと激しい戦いに挑まねばならないという思いの空回りの中で、自虐的に酒を呑

み正体を無くすという人間黒田のあり様が見てとれる。

ところで、先に引用した「詩人と権力」の一文は、次の文に続けてのものであった。

  共産党が人間的であるかないかといったことは、やはり俗な市民のひとりとして自分を省み

るところからはじめなければならぬ。

つまり、この「詩人と権力」という論文は、共産党を否定するのでなく、むしろ現代社会における

共産党の果たすべき役割を強く意識し、意識するが故に、共産党が集団として権力的に働き

がちな要因を深く究明しなければならないという動機のもとに、自己を含む人間の狭小さを省

みて、自らの問題として引き据えて書かれているのである。そして、その視座は、共産党とは

隔絶した別の地点に立ってこれを外部から批判するというのでなく、むしろ、自ら共産党を担う

べきであるとする自覚に立ってさえいると思われるほどに、冷静かつリアルにこの現実社会に

生起する重要問題の一つとして、あくまでも真摯にこの問題に立ち向かっている、と私には思

える。次の文章が私のこの見方を裏付けている。

 このような点から、プロレタリア詩の巧拙をあげつらうことよりも、ひとつの世界観としてのマ

ルクス主義が、そして、その現実的な組織としての共産党が、より切実に詩人の眼の前に在る

のである。詩人という既存の地盤からではなく、むしろ現代に生きているひとりの人間として逃

れられぬ問いの前に、われわれは立っているのである。僕が終始マルクス主義ないし共産党

について私見を述べたのは、現代においては、それを考えることなしには、何事をも考えること

ができないものとして、それが在るからである。無関心にすぎるためには、われわれは自分の

みじめで愚かな生活によってあまりにも自由を縛られているのである。  (「詩人と権力」より)

 後年、すなわち一九七三年、黒田が小選挙区制に反対する詩人の会に参加し、「拡大される

不公平・小選挙区制に反対する」を日本共産党の機関紙である「赤旗」に連載し、翌七四年、

「詩人金芝河の極刑をはじめ、太刀川・早川亮君の不当判決に抗議し、即時釈放を要求する

会」に参加し、挨拶の後、デモに参加し、さらにその翌七五年、「三十年その日暮らし・インフレ

の社会〈戦後史の中の私〉」をやはり「赤旗」に掲載し、「創造上の傾向や方法のちがいをこ

え、平和と進歩、民主主義を指向する共通の立場に立って、詩の創造と普及の運動を進める」

ことを規約にうたっている詩人会議の特別会友となり、その翌七六年には、『詩人会議』誌に

詩作品を発表し、さらにその翌七七年、詩人会議の運営委員長に推され、これを即快諾した

のも、必然といえる。少し長くなるが、黒田の詩人会議運営委員長就任の総会での挨拶から

抜粋してみるのも、黒田の「俗な市民」としての強い思いを推し量ることができる点で無駄では

ないと考える。

  私は亡き壷井さんのような闘士ではありませんし、御存知のとおりラジカルでもないし、政

治的な人間でもありません。昨夜も伊藤さんが黒田三郎は左翼などではないというお話があり

ました。左翼とか右翼とか古くさい言い方を私は好みませんが、しかし左翼でない筈の私が、

戦後三二年たった現在見渡すと、何か一番左の方に孤立している。私は生来不器用で、素早

い身変りのできる人間ではありません。これは時代社会が、いつのまにか非常に右に偏向し

ているひとつの証拠ではないか。詩の社会でも同じことが言えるんじゃないか。詩人会議の皆

さんとこの際、力を合わせて、民衆のための真の自由と民主主義を目ざして仕事をしてゆきた

い、こう思います。

 こうして、詩と政治を「直結できないのは、僕が政治活動向きの人間ではないからである。決

して政治に無関心であるわけではない。巨視的な判断よりも、微視的な実感のほうが自分に

ふさわしいと思うからのことである。」(「現代詩と私」)と述べていた黒田は、詩人会議の運営を

担ったのであった。

 黒田にとっての「俗な市民」の意味は以上に述べたとおりであるが、大岡信は、日本の近代

および現代の詩の流れを柔軟無比に考察した『蕩児の家系 日本現代詩の歩み』(一九六九

年発行)の「戦後詩概観」の中で、この黒田の「俗な市民」という概念が、現代の詩において果

した、あるいは果すべきであった意味についてようやく気付いたことを率直に記している。

「俗な市民」という言葉が、今、あらためて僕の眼を射る。「俗」という言葉の意味していたもの

が、戦後詩とよばれるわれわれの詩にとって、いかに重大な役割を果していたかを、今僕は、

眼を洗われるような気持ちで考えている。

 大岡は、この論文の中で、「俗」の意味について、「神官的、僧侶的なものに対して新しく勃興

した俗世間的、市民的なるものを指していると取るべき」であって、日本語で俗という場合に、

しばしば混入する「『卑俗』(vulgar)」の意味で捉えてはならないと指摘した上で、今日の集団社

会に生きる我々個人にとって、共産党の問題も、権力の問題として、集団と個人の問題とし

て、理想主義が理想主義ゆえに逢着しがちな腐敗の問題として、ひとりの市民であるにすぎな

い詩人にも全面的に関わりを持つと論じた黒田の思想の戦後詩における重大な意味に光を当

てた。

 他方で、日本の共産党は、戦後、五十年問題という混乱と分裂の時期を自ら前進的に克服

し、民主主義的集団討議を経て確立された綱領(この綱領も、その後の理論的解明を踏まえ

た内容を盛り込むとともに、より平易な表現に、近年、全面的に改正された。)を採択した後

は、『自由と民主主義の宣言』をはじめとする真の自由と民主主義への包括的指針を明らかに

し、「社会主義」とは名ばかりのソ連流の人権抑圧体制を早くから事実に即して批判し、ソ連が

崩壊した際には、直ちに大歓迎する声明を発表し、また、中国の文化大革命への本質を突い

た批判を展開し、当時の中国共産党からの暴力をも伴った卑劣な攻撃に屈することなくこれを

貫き、後年、中国共産党の自己批判と謝罪の表明を引き出すこととなり、これを受けて、それ

ぞれの党相互の自主的かつ対等平等の関係を回復し、今日に至っている。

政党に対する評価は、言っていることではなく、やっていることで測られるといわれるが、日本

共産党は、黒田三郎の「俗な市民」の視点からの論理的な批評を真摯に受け止める質を自ら

の内に育ててきたのである。他方で、黒田のいう「時代社会が、いつのまにか非常に右に偏向

している」という時代の流れが目立つようになる中で、元来は、政治的な闘士ではない黒田の

民主主義的政治行動が強まっていったのであって、黒田のこのような行動は、黒田自身の思

想と四囲の状況との相関関係においてみれば、至極自然なものであるといえる。

ここで、黒田自身に、黒田の日本共産党に対する理解について語らせよう(一九七七年七月

の『赤旗』に掲載の「私の戦後三十二年と共産党」)。

黒田は、「詩人と権力」が書かれたころの同党について、次のように述べている(脚注二)。

 共産党に関心がなかったかといえば、それはそうではない。日本の多くの知識人や良識のあ

る人たちが、つねに心の片隅に共産党を意識しながら生きてきたように、私も理論誌『前衛』

や党の出版物を買って読むこともあったのである。だが、率直にいって、そのころの党員はい

さましいのが多くて、一市民として愛の詩などを書いていた私にとっては、親しめず、党は近寄

りがたい存在のように見えた。

他方、右文章を執筆した当時である一九七七年の共産党については、次のように述べてい

る。

  私はあの戦中の暗い谷間で、高等学校(旧制)から大学へかけて、マルクス・エンゲルスを

ひたむきに読んだ体験を持っている。しかし、決してマルクス主義者ではなく、あくまでも一人

の詩人であるが、共産党が昨年発表した『自由と民主主義の宣言』や、その他党出版物を読

んでも異論はないし、率直にそれを受け止めたいと思っている。政治・経済・文化の全般にわ

たって荒廃をきわめている日本を革新してゆくためには、保守党はもちろんのこと群小諸党も

ダメだし、ちゃんとしたビジョンと理念を持っている共産党以外にないと思っているのである。

  これが一人のもの書きとして戦後三十二年を生きてきた私のひとつの到達点といえなくもな

い。

 黒田は、このほかにも、普通の市民的感覚を持った党員のことや、過ちを改めるのにやぶさ

かでない党の復元力についても言及しており、「詩人と権力」発表当時の冷静かつ真摯に共産

党について論じた姿勢のままに、共産党に対する親しい感情を持つに至ったことが明らかとな

る。

黒田は、先にみたとおり、自ら「政治的な人間ではない」と述べているが、「詩人という名によっ

て避けられる社会現象は何ひとつありません。」と述べた上で、「ナチス・ドイツにとってトーマ

ス・マンがひとりの危険人物であったように、日本においても詩人がひとりの危険人物としてそ

の敵の眼に映ることが僕等の夢であり、よりよく言えば、そのような敵の絶滅こそが、僕等の

夢であります。」と語っている(「若い世代の夢」)ことに照らせば、文学的であると同時に、本質

的な意味で極めて政治的な人間であるとさえいい得る。

黒田は、先の「詩人と権力」や右の「若い世代の夢」を含む評論『内部と外部の世界』のあとが

き(一九五七年)で、「自分で読みかえしてみても、独断的で性急かつ激越である。しかし、そこ

に扱われている問題に時代の差はあっても、基本的な考え方は、いまでもほとんど変っていな

いのだ。(中略)それは果せない約束のように、詩を書く僕の心のなかで燃えつづけている。」と

述べて、これらの論文での思索が黒田の創作活動の立脚点であることが、黒田自身によっ

て、あらためて確認されている。

ここで少し横道にそれるが、鮎川信夫と黒田を、現実社会への対し方において、比較してみる

ことは、黒田の特徴を浮き彫りにすることに役立つと思われるので、しばらくお付き合い願いた

い。

先にも引用した一九五一年版『荒地詩集』の目次よりも前の文字どおり巻頭に「Xへの献辞」と

題する長文が置かれているが、これは、鮎川の起草にかかるものである。この文章がまるで

荒地グループのマニフェストであるかのように受け取られかねないこのような位置に掲載され

ることに、荒地の人たちがすべて同意していたのかは定かではない。この間の消息について、

山県衛は、「Xへの献辞」という一文で、次のような興味深い記述をしている(一九八九年二月

『詩人会議臨時増刊号 黒田三郎』)。


 黒田さんが詩人会議の運営委員長になった頃、どういうわけか、『現代詩手帖』を中心とし

て、「荒地」グループをとりあげることが多かったと記憶している。

 そこで必ずのように引用されるのが『荒地詩集一九五一』の巻頭にある「Xへの献辞」であ

る。これが、「荒地」の理念、あるいは精神であるという持ち上げ方である。それは、必然的に

鮎川信夫を「荒地」グループの精神的リーダーに仕立てていく意図があるように見えた。

 私は「Xへの献辞」ができた事情を黒田さんに聞いてみたいと思った。

 (中略)

やっと機会をみつけて聞いてみると、鮎川信夫が書いたことが確認できた。こういう文があって

もいいだろうというのが、当時の同人たちの見方で、「荒地」グループの宣言という見方はして

いなかったはずだ、という返事であった。追随者たちの打ち込みぶりには苦笑している感じが

あった。

 その「Xへの献辞」の中で、「無名にして共同なる社会」という語が出てくる。鮎川のこの精神

共同体への夢は、戦争による精神への打撃の結果、この現実社会を「荒地」とみなしてこれを

全否定し、「無名にして共同なる社会」を夢想し、「互に連帯して進み得るような源泉的感情の

基礎」を追い求めたものであって、それは、現実には見出すことのできない、この現実社会と

は別のこれに替わるもう一つの完全なオールターナティブである。現実社会の中に厳然と存在

する矛盾がこの社会を内部から動かしていく契機となるという弁証法的観点ではなく、いわば

外部世界から別の理想の社会を思い描くという体のものであり、観念的な傾向が強い。その

結果、鮎川は、現実社会そのものを動かしていく社会参加の姿勢はとることなく、別の位置か

ら批評することとなった。

 この点、黒田は、「俗な市民」として、現実社会の中に現に生きて生活している。現実社会の

矛盾そのものに眼を向けて、歴史的な見通しを持てと言っている。「僕にはただ、目を開いて

大いに見よ、目をとじて、目を開いても見えなかったものを大いに見よ。」「ひとりの生活者とし

ては目の前のことでせいいっぱいで、あくせく生きてはいても、歴史の彼方にまで目を見張れ」

と呼びかけている(一九七七年「目を開いて見よ 目を閉じてなお見よ」)。これらの文は、「詩

壇は言語主義の花盛りのようでさえある。」「流行で目をつぶっている人間に何が見えるであろ

うか。」「流行の波が誘惑する。誘惑をのりこえよ。」という文脈で述べられており、詩の創作に

おいてとるべき肝心な姿勢について、私たちに厳しく指し示しているものである。

 また、黒田は、詩人というものの存在意義について述べる際にも、特権的存在であることを

否定する立場を明確にし、その点でも「俗な市民」としての詩作の意味を強調したのであるが、

鮎川は、これもやはり「Xへの献辞」という文章の中でであるが、次のように述べている。

  詩人の有する特権とは、個人的性質や階級の制約を超えた自由であることを君は知るだ

ろう。それはもはや特権として、外的に規定された状態ではなく、個人の、社会の、時代の、内

的な成長として記録せられ、高き自由を欲する人間の意志が、必然的に到達すべき世界に他

ならぬことを伝えている。

もちろん、鮎川のこの文章での「特権」は、世俗的意味でいう「特権」とは違った意味合いで用

いられてはいるが、やはり、現実社会とは別の観念的地点から、すなわち、現実の制約から完

全に自由な地点から「特権」として批評するのが詩人であるとする思想に立っている点で、黒

田とは全く異なっている。黒田であれば詩人について論じるに際し、間違っても「特権」という文

字を使うことはないだろう、という意味で、両者は全く相容れないのである。

 以上に述べた黒田と鮎川の違いの点に関して、大岡も、前掲文献で「鮎川氏も、組織あるい

は権力と個人の問題を繰返し論じたが、多くパセティックなトーンに特徴があったのに対し、黒

田氏の論文はきわめて論理的に問題を追求している。」と両者の違いを指摘している。鮎川に

あっては、共産党は、理性的に論述する対象であるというよりは、感情的嫌忌の対象であっ

た。

 以上、「俗な市民」の黒田自身にとっての意味を、また、それが日本の戦後詩が出発する際

に重要な立脚点となったことを見てきた。しかし、この黒田が論じた「俗な市民」という思想は、

単に過去において重要な役割を果したというにとどまらず、あれこれの時々の流行をはなれて

現代の詩が元来追求すべきものをあらためて私たちに想起させ、確認させるものであるという

べきであり、それは、必ずしも華やかでも突出したものでもない、いわばありふれた概念では

あるが、そうであるだけに普遍的な意味を持つきわめて重大な立脚点たり得る概念であると、

私は考える。

 黒田は、「現代詩人の行方」という論文で「モダニズム詩にも、プロレタリア詩にも煩わされ

ず、毒されない詩人が育ちつつある」と、また、「中野重治の詩の限界」という論文で「表白自体

に含まれているものを、よりリアルにするものは、そこに描かれたものと、それを描く作者自身

の位置である。敵の本質をきわめずに、ただ自分の怒りを一方的に歌う歌は、決してリアルな

力をもたない。また、怒りの歌を歌う自分がどういう自分であるかを明らかにしない歌は、決し

てリアルな力をもたない。もし作者の位置も敵の本質も自明だと思うならば、歌はもはや必要

でなくなる」と述べて(但し、黒田は、中野の詩のすべてがそのような限界をもつ詩であると述

べてはいない。)、戦後日本で永らく待たれたリアルな詩が育つことを期待し、その方向性を指

し示した。さらに「個人の経験とは何か」という論文では「現代詩の名において夥しい暗喩や直

喩をしょいこみ、言葉に対するリアルなセンスを失った多くの詩を、うんざりする位見せつけら

れている。本来、詩のリアルな柱であるはずの暗喩や直喩が、リアルなセンスの障壁化するな

どというのは、詩の自殺行為である」と、また、一九七九年の詩人会議の総会の挨拶で「現在

は、私が読んでもよくわからない詩が多い。私も専門家の方だと思うんですが、よくわからない

し、興味もない。努力をしてもムダであるという気がします。」「世の中は、よくわからない詩が

はやるからといって、右顧左眄しない方がよいのではないか。」「私はリアリズムをあまり狭く考

えておりません。シュールリアリズムみたいなものも、なかばリアリズムであるという考えを持っ

ております。・・・多様であっていいと思いますが、やっぱりわれわれの生きている現実に根ざし

たものでなければならない。そういうふうに思います。」と述べて、現代詩の傾向にかなり手厳

しい批評を行っている。他方で、「目を開いてみよ 目をとじてなお見よ」という論文では、「大量

詩集の時代」に関連して、身辺雑記的な詩がその大半を占めているとして、「個人の身辺雑記

的な詩が個人的なものに止っている限り、それはすぐれた詩にはならない。普遍性を持っては

じめて、詩となる。」と、詩が安易で平板なものへと希薄化していくおそれに警世を発している。

これらの発言も、いずれも「俗な市民」として詩を追求し、書きついできた黒田ならではの説得

力を有している。

 黒田の「評論・エッセイ」を収めた『黒田三郎著作集』の第二巻と第三巻から、いくつか拾い上

げた右の叙述は、いずれも、今でもそのまま当てはまる状況が日本の詩状況にはあり、決して

古さを感じさせない、的を射たものであるというべきであろう。

 そういうわけで、このエッセイを書いていて、私は、黒田三郎の詩や評論を今一度じっくりと読

み返したくなった。黒田三郎の作品論をも書いてみたいが、これは、他日に譲ることとしよう。

(脚注一)

例えば、次のようなエピソードがある。「四月に幼稚園の三年保育に入り、六月に妻が結核で
入院し、それから『小さ

なユリと』のふたりだけの生活がはじまった。詩集のあとがきに書いたように、十二月ボーナス
をもらった日に、小さな

ユリのいろいろな衣料を買い、デパートの混雑した空気に疲れて、ついいっぱいやったのがい
けなかった。買物を家

に置いて、預け先へユリをむかえに出たところでバスに轢かれたのである。あまりのことに妻
は激怒して退院、帰

宅、半年で小さなユリとの生活は終った。」(「私のアルバム」より)

(脚注二)

  「日本の多くの知識人や良識のある人たちが、つねに心の片隅に共産党を意識しながら生
きてきた」との黒田の

言葉に関連して、最近(二〇〇五年七月)の報道から、興味深いアンケートがなされたことを紹
介しておこう。英国B

BC放送のラジオ番組が実施したこの視聴者投票では、「人類史を通じて最も偉大な哲学者は
誰か」という問いに対

して、その結果は、カール・マルクスが二七・九三%で第一位となり、二位のデイビッド・ヒュー
ムの一二・六九%を大

きく上回ったという。投票者数は、予想された五〇〇〇人程度を大きく上回り、三四,〇〇〇
人。この結果にコメント

を寄せた著名な歴史学者エリック・ホブズボームは、「ソ連の崩壊でマルクスは解き放たれた」
「人々はマルクスの幅

広い著作を再発見し、二一世紀における経済のグローバル化の性質と事実についての予言
に驚かされながらマルク

スを読み直している」「多くの人々にとって、哲学は、物事を考えるだけでなく、理解し今の世界
を変えること」だとし

て、「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈してきただけである。しかし、大切なことは、それを
変えることである」とい

うマルクスの著作「フォイエルバッハに関するテーゼ」の中の言葉を紹介したとのことである。



ぼくにとっての恋愛詩


佐古祐二



1  社会的存在としての恋愛の詩


恋愛詩というものは、恋人達の二人の世界に埋没しがちであるが、社会とのつながりあるいは

桎梏との絡み合いのなかで表現された恋愛の死もる。



そこにひとつの席が



黒田三郎



そこにひとつの席がある


僕の左側に


「お坐り」


いつでもそう言えるように


僕の左側に


いつも空いたままで


ひとつの席がある


恋人よ


霧の夜たった一度だけ


あなたがそこに坐ったことがある


あなたには父があり母があった


あなたにはあなたの属する教会があった


坐ったばかりのあなたを


この世の掟がなんと無雑作に引き立てていったことか


あなたはこの世で心やさしい娘であり


つつましい信徒でなければならなかった


恋人よ


どんなに多くのものであなたはなければならなかったろう


そのあなたが一夜


掟の網を小鳥のようにくぐり抜けて


僕の左側に坐りにきたのだった



一夜のうちに


僕の一生はすぎてしまったのであろうか


ああ その夜以来


昼も夜も僕の左側に空いたままで


ひとつの席がある


僕は徒に同じ言葉をくりかえすのだ


「お坐り」


そこに一つの席がある


これは、失恋の詩である。失恋の詩は、ともすると主観的であったり、感傷的であったりして、

作者が思い入れを強くすればするほど、読み手にとっては興醒めする場合も多い。しかし、こ

の視の場合、失恋のこころにぽっかり空いた空洞を、傍らの空いた椅子という小道具を使うこ

とで視覚化し、自分に対して、適当な距離を置いて描くていることが、かえって読み手のこころ

に共感を覚えさせる。恋人たちを引き裂く世の中の諸処の掟。両親にとって聞き分けのあるや

さしい娘であり、属している教会に対しても規則をよくまもるつつましい信徒である娘が、世の

中の掟の網をくぐり抜け。一夜、恋しいひとの懐へと飛び込むまでの娘の思い悩みと、身も世

もなく恋焦がれる純なこころを理解するよりは、世間体や規則を第一に考えてしまうこちこちの

親や教会の人たち。親たちや宗教等に対する嘆きと憤りと風刺。そのような社会的存在として

の恋愛の詩は、普通の社会生活を送る世俗的な市民のこころに親しく語りかけるであろう。


どんなに多くのもので


あなたはなければならなかったろう


という恋人への呼びかけは、これまでの詩では表現されなかったものである。黒田三郎のこの

詩のように、社会とのつながりあるいは桎梏との絡み合いの中で表現された恋愛詩ー社会的

存在としての恋愛の詩ーは、案外、少ないかも知れない。


以下に、次の3章があるが、省略した。


2 宇宙に通じる恋愛詩


3 エロスと恋愛詩


4 宇宙摂理と、生きた官能


(「PO」2005・冬 120号)


また、この号とは別に119号は特集「黒田三郎」である。



詩作案内


戦後詩を読むE黒田三郎


嶋岡晨


(「詩人会議」2006年6月号掲載)


そのとき





そのとき


僕はぼんやり立っていたのだった


いつ来るかわからぬ汽車を待つように


死ぬ順番を待って


この世に行列をつくって


ぼんやり並んで


切符売り場で


課長や主任の下で


外食券食堂で


地獄の門で


どこでだってかまやしないのだ


行儀よく順番を待って


ぼんやり立っている僕のなかを


一日は一年のように


一年は一日のようにすぎていくのであった




そのときも


風のようにあなたが僕のなかに舞い込んで


あっという間もなく


僕をこの世の行列から押し出した


そのときも


僕はきっと煙草をくわえて


ぼんやり立っていたのだった




僕はまるでちがって(抄)



それでも僕はまるでちがってしまったのだ


なるほど僕は昨日と同じ服を着て


昨日と同じように飲んだくれで


昨日と同じように不器用にこの世に生きている


それでも僕はまるでちがってしまったのだ


ああ


薄笑いやニヤニヤ笑い


口を歪めた笑いや馬鹿笑いのなかで


僕はじっと眼をつぶる


すると


僕のなかを明日の方へとぶ


白い美しい蝶がいるのだ



黒田三郎(1918〜1980)


 H氏賞受賞の第一詩集『ひとりの女に』(昭29)から採った。この詩集は、黒田が三十歳の

頃、数ヶ月間に集中的に書いた作品である(あとがき)。戦後にはめずらしい独自の恋愛詩

集。ただし当然ながら(戦後性)を抱えている。上記の詩の〈行列〉もそうだ。日常随所に(配給

その他で)見られる光景だった。それが深い虚無的な諦念を民衆にもたらしていた。〈僕〉もそ

の一人。だが愛はそのような列の外へ、彼を押し出す。明日へと飛ぶ蝶が見えている限り、彼

は戦後の荒廃と虚無からのがれられる。

 「戦いに負けた人間であるという点で/僕等はお互いを軽蔑しきっていた」(「死のなかに」)―

勤務先の出張所のあるジャワ島で応召、敗戦、引き揚げという経歴の黒田にも。深い〈傷〉が

あった。しかし他の「荒地」の仲間のように、体験を核くとする激しい観念燃焼の造型は彼には

なく、多くは解り易いことばて日常的市民的感覚で表現された。

散文的なノンシャランさの中には、しかし(『ひとりの女に』が一度も愛を露骨に示さなかったよ

うに)微妙な羞恥に隠された鋭い批評があった。孤独病者・中原中也批判(「日本の詩に対す

るひとつの疑問」)、詩人だからといって避けられる社会現象は一つもないとの主張(「若い世

代の夢」)、「詩は、常に最も弱い者の味方」「民衆の抑圧された暗い一面の代弁」(「民衆と詩

人」)といった黒田三郎の詩論[昭和20年代発表]を読み返すがいい。「死の中にいると僕等は

数でしかなかった」、その死をかいくぐり、「僕の破滅を賭けた」と告げる愛が、そこから生まれ

た(詩「詩の中に」「賭け」)。「妻の歌える」では〈ひとりの女〉の立場で再軍備反対が訴えられ

た。

詩人会議運営委員長をつとめたこの詩人は、自分の弱さも露出して憚らず、時には酒に狂い

咆哮した。信州の山荘の名は「咆哮庵」だった。61歳、下咽頭癌で永眠。

三木卓さんと詩を読もう*黒田三郎


(「読売新聞」2005年6月29日夕刊)


僕はまるでちがって


僕はまるでちがってしまったのだ


なるほど僕は昨日と同じネクタイをして


昨日と同じように貧乏で


昨日と同じように何も取柄がない


それでも僕はまるで違ってしまったのだ


なるほど僕は昨日と同じ服を着て


昨日と同じように飲んだくれて


昨日と同じように不器用にこの世を生きている


それでも僕はまるでちがってしまったのだ


ああ


薄笑いやニヤニヤ笑い


口をゆがめた笑いや馬鹿笑いのなかで


僕はじっと眼をつぶる


すると


僕のなかを明日の方へとぶ


白い美しい蝶がいるのだ


((現代詩文庫6・黒田三郎詩集」・思潮社より)



恋がすべてを変えた


働いている男の人は、たいていお酒が好きです。一日の仕事の終わったあと、「ああ、やれや

れ」という気分で「とりあえずビール!」なんて叫んでいることでしょう。


長いこと勤め人生活をした黒田三郎(1919〜80)はお酒の好きな詩人でした。かれはお酒を飲

むこと、度をこすこともしばしばで、そういう自分をかれは〈ろくでなしの飲んだくれ〉(「洗濯」)と

激しく嫌悪していますが、それでも止められないのがお酒です。


そういう自尊心のもてない詩人が、ある日突然「まるでちがってしまった」のです。


謎を解く鍵は、この資の収められている詩集の題にあります。その題は『ひとりの女に』といい

ます。一人の女性との恋愛の連作詩集です。


詩人は恋に落ちたのです。


恋の高揚はすべてを変えます。それまでの生きがいのない人生も、一人の女性の出現によっ

て、まるでちがって感じられてきます。


明日の方へとぶ美しい一匹の蝶。それが、かれが好きになった女性の象徴です。かれは生き

ていくための、希望と勇気をもらったのです。そして彼女、光子さんと結婚しました。


『ひとりの女に』は、戦後の名恋愛詩集といわれています。


(三木卓・作家・詩人)